臨床推論と科学哲学 ― 正しい治療法を探すことと、科学的に考えることは同じではない ―|中野富士見町の整骨院 富士見町fine整骨院 はり灸マッサージ院

  • 初診の方は必ずご予約ください

    0363825560

  • 受付
    【月・火・水・金】11:00~14:00 / 16:00~21:00
    【土】11:00~14:00 / 16:00~20:00
    【日・祝】11:00~16:30
    ※患者様にスムーズに施術を受けて頂くため
    予め予約を入れてからのご来院をお勧めします。
    定休日
     木曜日/第1・第3日曜日
  • ネット予約はコチラ

臨床推論

臨床推論と科学哲学 ― 正しい治療法を探すことと、科学的に考えることは同じではない ―

科学的な治療とは何でしょうか

現代の医療では「科学的根拠(エビデンス)」という言葉が頻繁に使われます。

ある治療法に効果があるのか。どの程度の改善が期待できるのか。従来の治療法より優れているのか。

こうした疑問に対して、統計的な研究や臨床試験によって答えを求めることは、医療の発展に欠かせない取り組みです。

しかし、ここで一つ考えたいことがあります。

科学的根拠のある治療法を選択することと、科学的な思考によって患者の身体を理解することは、同じなのでしょうか。

例えば、腰痛に対して一定の有効性が認められた運動療法があるとします。

その運動療法を患者に指導することは、研究結果に基づいた合理的な選択といえるでしょう。

しかし、それだけで目の前の患者がなぜ腰痛を発症したのか、なぜ特定の動作で痛みが生じるのか、なぜ別の動作では痛みが消えるのかを説明できるわけではありません。

治療法の有効性を知ることと、症状が発生する仕組みを理解することは、異なる課題なのです。

科学は正しさを証明する営みなのでしょうか

科学哲学者カール・ポパーは、科学の重要な特徴として「反証可能性」を提唱しました。

ある理論が科学的であるためには、その理論が誤っていることを示し得る観察や実験が、原理的に存在しなければならないという考え方です。

例えば「腰痛はすべて筋肉の硬さによって発生する」という仮説を立てたとします。

この仮説が正しければ、筋肉の硬さと腰痛の発生には一定の対応関係が見られるはずです。

ところが、筋肉が硬くても痛みのない人がいる一方で、明確な硬さがなくても強い痛みを訴える人がいます。

こうした観察結果を前にしたとき、仮説をどのように扱うかが重要になります。

「硬さが見つからないだけだ」「もっと深い筋肉が原因なのだ」と説明を追加し続ければ、どのような結果が出ても最初の仮説を守ることができてしまいます。

しかし、それでは仮説を検証する意味がありません。

科学的な姿勢とは、自分の考えを正しいと証明し続けることではなく、自分の考えが誤っている可能性を常に残しておくことではないでしょうか。

もちろん、反証可能性だけで科学のすべてが説明できるわけではありません。しかし、臨床家が自分の見立てを検証するうえでは、非常に有用な考え方です。

臨床推論とは、仮説を立てて検証すること

私が臨床で重視しているのは、患者の症状を既存の病名や治療法に当てはめることよりも、症状を生み出している身体の状態を推論することです。

例えば、腰を前に曲げると痛みが出る患者がいたとします。

一般的には、腰部の筋肉や椎間板などに原因を求めることが多いでしょう。

しかし、私はそれに加えて、骨盤に対する胸郭の位置、股関節の運動、身体全体の支持関係などを観察します。

胸郭が骨盤に対して後下方に偏位し、その位置を維持するために腰部の筋群が過剰に働いているのではないか。

その結果、腰椎や骨盤周囲の運動が制限され、前屈時に特定の組織へ負荷が集中しているのではないか。

このような仮説を立てた場合、次に必要なのは、その仮説から具体的な予測を導くことです。

仮に胸郭の位置関係が症状の発生に関与しているのであれば、胸郭と骨盤の位置関係を変化させることで、前屈時の痛みや可動域にも変化が生じる可能性があります。

実際に介入し、再び前屈動作を確認します。

予測した変化が得られなければ、最初の見立てが不十分だった可能性を考えます。

一方、痛みが軽減したとしても、それだけで仮説が証明されたわけではありません。

介入には複数の作用があり、症状の変化には神経系の調節や患者の期待、自然な変動なども関与するからです。

それでも、仮説から予測を立て、その予測と実際の結果を照合することには意味があります。

この繰り返しによって、臨床家の推論は少しずつ精緻化されていくと考えています。

治療効果があったことと、原因が分かったことは違います

臨床では、ある部位への施術によって、離れた部位の症状が大きく改善することがあります。

例えば、頚部の痛みを訴える患者に対して、肩甲帯や胸郭の運動を調整したところ、頚部の動作痛が消失したとします。

この結果から、肩甲帯や胸郭が頚部症状に関与していた可能性を考えることは合理的です。

しかし、そこで「頚部痛の原因は肩甲帯だった」と断定してしまうと、推論を一段階飛躍させることになります。

症状が改善したという事実と、その改善がどのような機序によって生じたかという説明は、区別する必要があります。

これは、臨床家が特に陥りやすい問題だと思います。

自分の施術によって症状が改善すると、その施術の前提となった理論まで正しかったように感じてしまうからです。

しかし、異なる理論に基づく複数の治療法が、同じ症状に対して効果を示すこともあります。

したがって、治療効果は仮説を支持する一つの観察結果にはなっても、その仮説だけが正しいという証明にはなりません。

治せたことと、理解できたことを混同しない。

これは臨床推論において、非常に重要な原則だと考えています。

エビデンスと臨床推論は対立するものではありません

ここまでの話は、統計的な研究やエビデンスを否定するものではありません。

むしろ、臨床推論と研究による検証は、互いに補完し合う関係にあります。

大規模な臨床研究は、ある治療法が集団に対してどの程度の効果を持つのかを評価するうえで有用です。

一方、個々の患者には、既往歴、身体的特徴、生活習慣、運動戦略などの違いがあります。

研究によって平均的な治療効果が示されていても、目の前の患者にどのような介入が適切なのかを判断するには、個別の臨床推論が必要になります。

また、臨床で繰り返し観察される現象から新しい仮説が生まれ、それを研究によって検証することもできます。

臨床経験は、それ自体で因果関係を証明するものではありません。しかし、研究すべき問いを発見するための重要な出発点にはなります。

問題は、エビデンスを重視するか、経験を重視するかという二者択一ではありません。

どのような問いに対して、どのような証拠が必要なのかを考えることです。

セグメント距離モデルという仮説

私は現在、身体を構成する各セグメントの位置関係、とりわけ骨盤と胸郭、胸郭と頭部、骨盤と大腿骨頭、足部アーチといった上下方向の距離に着目した臨床モデルを考えています。

これを「セグメント距離モデル」と呼んでいます。

基本となる考え方は、身体各部の位置を単独で評価するのではなく、重力下で各セグメント間の距離をどの程度維持できるのかという能力に注目するものです。

例えば、胸郭と骨盤の距離を維持する能力が低下した場合、身体は別の部位の筋活動や関節配置によって姿勢を補償するかもしれません。

そして、その補償が特定の組織に過剰な負荷を与えることで、痛みや運動制限につながる可能性があります。

ただし、これは現時点では臨床観察から構築している仮説です。

モデルが有用であるかを判断するには、距離の測定方法を定義し、症状や運動能力との関係を調べ、既存の説明モデルと比較する必要があります。

さらに重要なのは、どのような結果が得られた場合に、このモデルを修正あるいは棄却するのかを明確にすることです。

自分が考案した理論だからこそ、その理論を守ることではなく、誤りを発見できる形にしておかなければならないと考えています。

臨床家に必要なのは、正解を所有することではありません

医療の世界では、知識や技術が体系化されるほど、既存の説明を正解として扱いやすくなります。

もちろん、先人たちが積み上げてきた知識を学ぶことは不可欠です。

しかし、その知識は患者の身体を観察するための道具であって、観察結果を無条件に従わせるための規則ではありません。

既存の理論と実際の観察が一致しなかったとき、患者の身体を理論に合わせて解釈するのか、それとも理論の側を修正するのか。

ここに臨床家としての姿勢が表れると思います。

科学的な思考とは、常に正しい答えを持っていることではありません。

自分の理解が不完全であることを認め、観察と検証によってその理解を更新し続けることです。

臨床家が向き合う患者の身体は、教科書の説明どおりに振る舞うとは限りません。

だからこそ、知識を持つだけでなく、問いを立てる能力が必要になります。

「なぜ、この患者には、この症状が起きているのか」

その問いに対して仮説を立て、検証し、間違っていれば修正する。

私にとって臨床推論とは、その繰り返しです。

そして、その姿勢を支えているものこそ、科学哲学なのだと思います。

ページトップへ戻る